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仏事のイロハ

仏事のイロハ

仏壇のお茶と水について
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仏教には多くの宗派がありますが、ほとんどの宗派で、仏壇やお墓に、「お水」や「お茶」をお供えするようになっています。これは、「死者は喉が渇く」という考えがもとになっており、「毎日お水をお供えすることが、亡くなった方への供養」とされてきたからです。このため、お水やお茶といった水分は、お供え物の中でも特に大切で、仏壇やお墓には必要不可欠なものとされてきました。

しかし、浄土真宗の場合は例外です。浄土真宗では、仏壇のお供え物を「ご先祖様の食べ物や飲み物」とは考えず、お浄土の荘厳功徳(しょうごんくどく)、つまり、お浄土のはたらきが表現されているものと考えます。仏前のお供え物を通して、食べ物の恩恵、ありがたみを教えて頂くのです。

『仏説無量寿経』という経典に依れば、お浄土に生まれた方々は、人間のような飲食(おんじき)の必要がなく、飢えや渇きがないと説かれています。ですから、わざわざ私たちが、お水やお茶を供養する必要はないのです。

なお、浄土真宗でお水をお供えする場合は、華瓶(けびょう)に樒(しきみ)などの香木を入れ、「香水」としてお供えします。これは、浄土の池の水である「八功徳水」(はっくどくすい)にちなんだもので、お浄土の「はたらき」を表したものです。

「喪」の考え方
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日頃から、喪中や忌中について、たくさんの質問を頂きます。そこで今回は、神道の考え方を取り上げながら、浄土真宗における「喪中」や「忌中」の考え方についてお話し致します。

「喪」という言葉には、もともと「死別に対する自発的な悲しみの表現」という意味があり、そこから「家族や親戚、心を寄せる人や尊敬する人などの死を受けて、一定の期間、日常の生活とは違った儀礼的禁忌状態にあること」を指すようになりました。

神道が考える「喪」は、その期間が「忌」と「服」に分けられ、両方を合わせて「服忌」(ぶっき)または「忌服」(きぶく)といわれます。「忌」は、故人のための祈りに専念する期間、または死の穢れが身についている期間とされ、期間中は家の中にこもり、穢れが他の人に移らないようにしなければなりません。一方、「服」は、故人への哀悼の気持ちを表す期間とされ、期間中の慶事を控えます。

一般的に、家族が亡くなったときの「忌」は五十日、「服」は十三ヵ月とされ、一年以上に亘って「喪中」が続きます。

一方、浄土真宗では、「喪」そのものの考えが存在しませんから、喪中の期間がなく、喪に服することもありません。無論、儀礼的な禁忌事項も存在しないのです。
ただし、浄土真宗独自の「忌」の考え方があります。満中陰までの四十九日間を「忌中」とし、もっぱら仏法を聴聞しながら世事(世間的な用事)をさける期間とします。参考にしてください。

「むかわり」について
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むかしは、一周忌の事を「むかわり」といいました。「むかわり」とは、「向かわること」、つまり「一周まわって向き合える場所にもどってくること」をいいます。

一年前の忌日(命日)から一周し、再びこの日に還ってきた、という意味が「むかわり」なのです。

一周忌が終わると、次の忌日は三回忌。「二周忌」とはいわないのですね。

衣更え と 衣替え
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先日、ご門徒様から「ころもがえ」の漢字について質問を頂きました。これまで「更衣」又は「衣更」とお答えしておりましたが、このたび改めて調べてみますと「衣替え」でも構わないそうです。

そもそも「ころもがえ」とは、葬儀や法事を勤める僧侶の法衣を新調して寺に納めることでした。わが家の葬儀(法事)は、わが家の納めた法衣で勤めてもらう、これが基本の考え方でした。

このような背景から、反物の晒(さらし)をお供えする習慣ができたと考えられています。

「浄土真宗のお盆のお飾り」
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お盆の風習は、各宗派で違いがあり、それぞれの地方によって様々な特色がみられます。そこで今回は「浄土真宗のお盆のお飾り」というテーマでお話ししたいと思います。

さて、お盆のお飾り(荘厳・しょうごん)ですが、実は、浄土真宗には、お盆用の特別なものがありません。「お盆特有の荘厳がない」ということ自体が、浄土真宗の特色とも言えるのです。

このことは、「浄土真宗のお仏壇」を考えると、ハッキリとわかります。浄土真宗のお仏壇は、「先祖をおまつりするところ」ではなく、「阿弥陀様をご安置するところ」であり、「阿弥陀様の世界(お浄土)を表現するもの」だからです。

ですから、お仏壇の荘巌は、先祖供養を目的に行うものではなく、阿弥陀様の「すくい」の表現として、厳かにお飾りするべきものなのです。

阿弥陀様は、これまで数知れないご先祖様方をすくってこられました。そして、そのすくわれたご先祖様方が、いまはお浄土に往生し、こうして私を導いてくださっているのです。
※きゅうりやナスといった野菜をお供えすることはありません。

「お盆」のおはなし
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浄土真宗のお盆は「歓喜会」(かんぎえ)といわれ、その由来となった『仏説盂蘭盆経』(ぶっせつうらぼんきょう)のみ教えを、お念仏のお味わいで頂くものであります。

これを簡単に説明致しますと、お浄土に往生なされたご先祖様は、様々な手段で私たちを教え導く「菩薩様」となってくださっており、お盆のご縁をもうけて、私たちに「欲張りな心」についてご教示くださいます。その内容とは、「貪欲な生活が、人々に飢えと渇きをもたらし、満足することを知らない鬼(餓鬼)へと変貌させる。鬼となった者は、自分自身の欲望に狂い、嫉妬に苦しみながら、餓鬼道(がきどう)へと堕ちていくのである。もし、すみやかに貪欲の心を離れたいならば、お釈迦様のみ教えを正しく聞き、それを素直に受け入れるべきである」というものです。

お釈迦様は「お皿の上の食べ物をみんなで分かち合う精神(お盆の精神)が、人々の心を豊かにし、皆を幸せにする。しかし、人々はそのことを知らず、自分たちの利益ばかりを考えて、それを得るために苦しんでいる」と説法なされます。そこで、ご先祖様が「欲張りの心を捨て、お皿の上の食べ物を分かち合うほどの心をもってほしい」と、お盆の法会(仏事)を開いてくださるのです。

私たちは、このご先祖様のお慈悲(私を思ってくださる心)を知って、大いに喜び、感謝申し上げるのです。ここから、浄土真宗では、お盆を「歓喜会」というようになりました。

御正忌(ごしょうき)と報恩講(ほうおんこう)
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宗祖親鸞聖人の祥月のご命日(一月十六日)を「御正忌」といいます。京都のご本山(本願寺)では、毎年、この御正忌をご縁に「報恩講」が勤められており、一月九日から十六日までの八日間、全国各地から多くの門信徒が参拝に訪れます。

報恩講とは、親鸞聖人のみ教えに導かれている門信徒が、あらためて親鸞聖人のご恩に感謝し、報いようとする法会のことで、各寺院や一般の家庭においても、一年でもっとも大切な仏事として厳粛に勤められています。

当山(寶蓮寺)の報恩講は、毎年一月五日から八日となっております。御正忌に取越してお勤め致しますので、これをむかしから「お取越し」(おとりこし)と呼び、そのご縁を喜んでおります。

友引について
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「友引に葬式をするのは縁起でもない」といわれる方がいらっしゃいます。理由を聞かせて頂くと「友引に葬式をして、死者に友を引かれては困る」といわれるのです。

今回は、友引についてお話し致します。
中国から伝わる古い占いのひとつに「六曜」というものがあります。六曜は、太陰暦に基づいて先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口を一定の規則によって当てはめていく単純な占いです。中国では、ずいぶんと昔に信じられなくなったそうですが、日本では(特に戦後になってから)、多くのカレンダーに書かれるようになり、こだわる人が多くなりました。もともと仏教とはなんの関係もないのですが、「仏滅」という言葉が入っているものですから、仏教と関係があると勘違いしている人もいるのです。

さて、「友引」のことですが、もとの占いでは「共引」と書き、「引き分け」を意味したのだそうです。それを語呂合わせで「友を引く」とし、縁起をかついで忌み嫌うようになったのです。

このような「おかしな解釈」が迷信を生み、人々を惑わすようになりました。浄土真宗の信心にまったくそぐわないものといえます。
真宗門徒として、お互いに気をつけたいものです。

永代経(えいだいきょう)
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永代経とは、「永代読経」の略で、「これから何代にもわたってお経が読まれる」という意味をもちます。そこから、「お寺が護持され、広くみ教えが伝わるように」という願いが込められるようにもなりました。

今日、故人への追慕の心から「永代経懇志」が進納されますが、これは「故人を追善供養する」という意味合いのものではありません。仏様となられたお方のお心を聞かせて頂き、「このみ教えを未来の人たちにも喜んでもらいたい」との思いから進納されるものなのです。

また、この「永代読経」の願いを込めてお勤めされるものが「永代経法要」です。

枕飾り(まくらかざり)
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亡くなられた方が自宅のお内仏の前(仏間)へ帰られると、葬儀社の方が「枕飾り」の準備をはじめます。枕飾りとは、遺体の枕元に置く「仮祭壇」といわれるもので、「簡易的な祭壇」として、故人の供養のために設置するといわれています。白木の机の上に香炉・ロウソク立・花瓶が置かれ、そのほかにも鈴(リン)や枕飯(一膳飯)、枕団子、浄水などが飾られます。この枕飾りに供えた食べ物によって、故人が欲から解放される、というような考え方もあるそうです。

しかし、この枕飾り、仏教各宗派によって考え方が異なり、浄土真宗の教えからすると、まったく相応しくない、必要のないもの、といえるのです。
亡くなられた方のそばに机を置く必要はありませんし、お団子や一膳めしをお供えすることもありません。リンも、お仏壇のところにあれば十分です。

「葬儀までは、ローソクの灯りや線香を絶やしてはならない」といって、巻線香やコップのロウソクを置く葬儀社もありますが、これも真宗には相応しくありません。線香や灯明は、お仏壇にお参りをするたびにつけるのが正しい作法です。
※仏教では、祭壇(さいだん)とはいわずに、葬儀壇とか荘厳壇(しょうごんだん)というのが正しい言い方です。

御文章(ごぶんしょう)
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「御文章」とは、本願寺第八代住職の蓮如上人(れんにょしょうにん)のお手紙をまとめた書物のことをいいます。室町時代、浄土真宗の教えを分り易く伝えようと、仮名まじりの簡潔な表現で、門弟や門徒にお示しくださったものです。

蓮如上人のご功績は計り知れず、今日も「浄土真宗中興(ちゅうこう)の祖」と仰がれるほどであります。当時衰退していた本願寺を一代で再建し、浄土真宗を広く全国へと伝えていかれました。お寺の本堂や家庭のお仏壇では、阿弥陀様の右脇(向かって左側)に侍られ、いつも私たちを照らし、導いてくださっておられます。

「御文章」は、浄土真宗の肝要(かんよう:最も 重要な教え)を示すものとして、日々の勤行や法事の最後に拝読します。僧侶ばかりでなく、ぜひ皆さん方もお読みください。
「聖人一流章」や「末代無智章」、「白骨章」などは、日常勤行集にも掲載されております。
ちなみに、福沢諭吉先生は、この「御文章」は、本来、ご本山(本章」をいつも懐に入れて持ち歩き、生涯の愛読書とされていたそうです。

※「御文章」は、願寺)よりお迎えし、御文章箱に入れて、お仏壇の前(経机の左側)に置くようにします。ご本山より「御文章」をお迎えされたい方は、当山にてお申込みください。

 

御文章と御文章箱

御文章と御文章箱

念珠の選び方
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みなさんは、念珠を購入されるとき「どのようなものを選んだら良いのだろうか」と悩まれたことはありませんか。今回は、念珠についてお話し致します。

まず、念珠は、自分の手に合った大きさを選ぶことからはじめます。念珠のサイズは様々ですから、できれば一度手に通し、自分に合ったサイズかを確認しましょう。合掌して両手の親指の付け根に念珠をかけ、房を真下にたらします。この時、念珠が親指の付け根までとどかなかったり、房が真下を向かなかったりするようならば、「念珠が小さい」ということになります。一般的に、女性用の珠(たま)は小さく、男性用の珠は大きくなっていますが、珠自体の大きさには決まりがありませんので、お好みのサイズを選んでください。また、現在お持ちの念珠が小さいようでしたら、同じ珠をつぎ足し、輪全体を大きくすることもできますので、ご相談ください。

浄土真宗では、在家用の念珠の場合、珠の材質、色、形状、珠数に決まりはなく、菩提樹(ぼだいじゅ)や栴檀(せんだん)などの木、翡翠(ヒスイ)や瑪瑙(メノウ)などの石、琥珀や珊瑚、瑠璃(ラピス)といった貴重素材のものがあります。一輪(単念珠)でも二輪(二連珠)でもよいのですが、一般的には「一輪念珠」が選ばれています。

房の形状も様々なものがありますが、浄土真宗の門徒は、男性が「紐房(ひもふさ)」、女性は「切房(きりふさ)」が一般的です。(房だけを交換することも可能です。)

男性用念珠

男性用念珠

女性用念珠

女性用念珠

門徒式章
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門徒式章とは、門信徒が着用する袈裟(けさ)のことです。門徒式章をかけ、念珠を手にかけることが、礼拝時における門信徒の正式な服装と定められています。

門徒式章は、僧侶が袈裟を着用するのと同じで、仏様の前でお参りする時の「たしなみ」です。お経本や念珠と同様に大切な法具の一つですから、つねに丁寧に取り扱い、畳の上や床の上など、足で踏む場所に直接置いたり、門徒式章をかけたままトイレに行ったりしないようにしましょう。

法名と戒名
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浄土真宗の門徒は、「戒名」ではなく「法名」を賜ります。「戒名」とは、戒律を受けた者に授けられる名でありますから、受戒しない真宗門徒が「戒名」を頂くことはないのです。

一方「法名」とは、お釈迦様の弟子(仏弟子)となった「名のり」です。故人に対して贈られる名と誤解されることも多いのですが、原則的には、生きている間に仏法に帰依し、仏弟子として生きていくことを誓って授かる名なのです。

本願寺派では、得度(とくど)を受けた僧侶、帰敬式を受けた門信徒に与えられますので、ご縁に応じて「法名」を頂きたいものです。

お位牌のおはなし
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「位牌」とは、古代中国の「儒教」の儀式に用いられた木札(木主)を起源とし、鎌倉時代に伝来して、江戸時代に普及したといわれています。今日でも、「死者の霊魂を招くもの」あるいは「霊魂がとどまるところ」として、ひろく一般に定着しています。

しかし、「諸法無我」の道理を説く仏教の立場では、「死者の霊魂」を認めることはなく、それを信仰の対象とすることもありませんので、仏教において「位牌」そのものの意味合いが大きく変化したといえましょう。

他宗(浄土真宗以外の仏教各宗)には、追善供養(死者の冥福を祈って行う供養)という考え方がありますから、塔婆(墓石の後ろに立てる細長い板)と同様に位牌をつくり、それを信仰の対象とすることがあります。しかし、浄土真宗には、故人に対する回向(自分の功徳を回し向ける)という考え方がなく、位牌を用いた追善供養を行いません。

これまで、浄土真宗の家庭においても、積極的に位牌が用いられてきた歴史がありますが、その場合でも「死者の霊が宿る」という考え方ではなく、「故人の法名を記すためのもの」として、その役目を担ってきました。位牌を過去帳代わりに用いる場合、位牌にお参りをすることはありませんし、お仏飯やお水をお供えすることもありません。

当山(寶蓮寺)におきましては、「位牌信仰を助長しない」という意図から、位牌ではなく法名軸(ほうみょうじく)を用いるようにしております。

法名軸

法名軸過去帳

過去帳

お斎(とき)について
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お葬式やご法事など、仏事のときに頂く食事のことを「お斉」(おとき)といいます。

お斎とは、本来「時食」(「お時」)が語源で、寺院における定時(日の出から正午まで)の食事のことを指しました。むかしの仏教寺院では、食事は朝と昼の一日二食と決められており、その定時の食事を「お斉」(時食・お時)、定時以外の食事を「非時」・「非時食」(ひじじき)と呼びました。

精進を心がける修行僧の「お斉」は、一般的に「精進料理」と呼ばれていますが、それは不殺生(ふせっしょう)という戒律にしたがって肉や魚を口にせず、精力がつくとされるニンニクやネギ、タマネギを食べることも禁じています。また、分量を過ぎない程度を口にし、目の前に出された食べものを残さずにありがたく頂くことを基本とするのです。決して、味の良し悪しを言ってはならず、好き嫌いはもってのほかなのです。こうしたところから、「お斉」は、仏事の一つであると受け止められてきました。

私たちも、「お斉」を単なる食事と考えるのではなく、「命の尊さ、食べもののありがたみを味わう仏事」という意識を持ちながら、ありがたく頂きたいものです。

満中陰(四十九日)の法事について
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「四十九日が三月(みつき)にわたるとよくない」といわれる方がおられますが、その根拠を調べてみると、浄土真宗のご法義(み教え)とはまったく関係のない「迷信」であることに気づきます。語呂合わせで、「四十九」を「始終苦に、「三月」を「身つき」に置き換えて、「始終苦が身に付く」ので「縁起が悪い」と言われるようになったのです。

仮に、一月(ひとつき)を三十日で数えますと、一月(ひとつき)と十九日で四十九日を迎えることになりますから、月の十二日以降にお亡くなりになられた方は、みな三月(みつき)にまたがり、「縁起が悪い」ことになります。

本来、中陰のお勤めは、遺族が「仏法を聴聞する場」として、仏様から賜る大切なご縁です。初七日にはじまり満中陰に至るまでの毎週のお勤めを、単なる語呂合わせの迷信によって短縮してしまうことは、仏様として導いてくださる故人の「願い」に背を向けることにもなるでしょう。

仏事には、むかしから色々な言い伝えや慣わしがありますが、あくまでも「ご法義(み教え)」が中心です。迷信や俗信、世間体などにとらわれずに、大切にお勤めしたいものです。

金封と水引
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お月忌参りやご法事の際、金封の表書きには何と書かれますか。浄土真宗の場合は、「御布施」または「御法礼」と書きます。御布施は、僧侶への報酬ではありませんので、「御経料」とか「御経代」とは記しません。
布施(古代インド語のダーナが語源)は、仏道修行の第一にあげられる大切な行の一つで、本来は、我欲を離れて他者を思いやる心の実践として行われたものです。ですから、金銭だけでなく、やさしい言葉をかけたり、笑顔で人と接したり、苦しむ人々に手をさしのべたりするのが、仏教の説く布施なのです。

お参りの御布施や御法礼は、僧侶に差し上げるものではなく、お寺のご本尊、阿弥陀如来にお供えするものですから、お渡しするときには、お盆にのせて「おことづけして失礼ですが…」とか、「よろしくお願いします」と言葉を添えるのがよいでしょう。

お寺のご本尊にお供えされた御布施や御法礼は、住職が責任をもってお預かりし、ご法義繁盛、寺内発展のために大切に活用させて頂きます。

なお、金封の水引の色は、葬儀、中陰などのときは銀、黄・白または黒・白などを用い、入仏法要や報恩講などは赤・白がよいでしょう。参考にしてください。

御香典と御仏前について
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みなさん、お葬式やご法事にお参りする際に持参する「おつつみ」(金封)の表書きはどのようになされていますか。
「御香典」、「御仏前」、「ご霊前」、「玉串料」など、宗教によって表書きもさまざまです。浄土真宗では、ご霊前、玉串料を用いることはなく、御香典か御仏前を用います。

御香典とは、平たくいえば <お香代> ということで、本来持参するべき香を借用した際、その香の代金を封筒に入れてお渡しする、というところからはじまりました。ですから、お焼香をするような仏事の金封には、御香典または御香資(ごこうし)とするのがよいでしょう。

一方、御仏前は <仏様の前に置くお供え物> という意味合いから、本来持参するべきお供え物(お菓子や果物)の代わりに、その代金を封筒に入れてお供えする、ということになります。ですから、「御仏前」は仏事に限ったことではなく、日常のお付き合いの場でも用いることができるのです。

ちなみに、御香典や御仏前を仏前にお供えするときは、お経卓(きょうじょく…お仏壇の前にある経本を置くための机)を避けるようにし、仏様の方には向けないように致しましょう。

リン(キン)について
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お仏壇の前にあるリン(正式には「キン」といいます)は、誰がどのような時に打つのでしょうか。今回は、リンについてのお話です。

お仏具の一つであるリンは、お経をあげるときの合図として打ちます。ですから、お経をあげないときには打ちません。よくお仏壇の前で「チンチン」とリンを打って手を合わせている人を見ますが、その後にお経をあげる方はほとんどおられません。いったい、何のためのリンなのでしょうか。

浄土真宗では、リンは、読経のはじめに二回、終わりに三回打つのが一般的です。さらに、途中の節目で一回打ちます。リンを打つ回数は決まっており、二回だと始まり、三回だと終わり、一回だとまだ途中、ということが分かります。お経本を見て頂きますと、リンの打つ箇所が記されていますので参考にしてみてください。

打ち方は、ご家庭のリンですと、親指と人差し指・中指の3本の指でリン棒を持ち、リンの内側を打つようにします。

※リンは経卓(お仏壇前の机)の上には置かずに、経卓の右横に配置してください。バチはリンの中に置くか、バチ置きの上に置いてください。

 

「打敷」のおはなし
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打敷(うちしき)とは、仏壇をお飾りするための仏具のひとつで、美しく織られた敷物のことをいいます。本来は上卓(うわじょく)と前卓(まえじょく)の上に掛けて用いますが、一般家庭のお内仏では、三具足または五具足の下に敷きます。平常は用いず、祥月命日、年忌法要、中陰、お正月、春秋彼岸、お盆、報恩講など、特別な仏事の時に用います。

打敷は、釈尊の説法の座をお飾りしたことに由来し、その形が転じて現在の敷物となったようです。葬儀、中陰法要などには銀地または白地の打数を用いますが、お正月や報恩講には鮮やかで美しいものを用いるなど、行事の趣旨や季節によって色や柄を選びたいものです。

打数を掛けることによって、平常とは違う特別の仏事であることを表します。
※上卓…火舎香炉(かしゃごうろ)や火立(ひたて)、華瓶(けびょう)や仏飯を置く机のこと。
※前卓…香炉やロウソク立、花瓶(かひん)を置く机のこと。

 

 

華瓶(けびょう)のおはなし
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ご家庭のお仏壇を見てください。阿弥陀様の前に左下の写真のようなお道具はありませんか。

これは華瓶(けびょう)という仏具で、「お浄土の池」を表現しています。

華瓶は、私たちにお水の功徳や恩恵を教えてくださるものだといわれます。

樒(しきみ)などの緑葉樹をさして、毎朝、お水を交換致しましょう。
華瓶の中に色花や造花をさすことはありません。

華瓶(けびょう)

華瓶(けびょう)

華瓶(けびょう)と樒(しきみ)

華瓶(けびょう)と樒(しきみ)

お香のおはなし
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仏教で「お香」の風習が生まれたのは、発祥の地であるインドの自然環境に由来するといわれます。インドは酷熱地帯であるために、注意を怠るとたちまち腐敗や臭気が強くなります。そこで、お香に対する関心が高まり、人を家に招くときや自分の体臭が気になるときに「お香」が用いられるようになりました。

このような背景から、仏様を供養する作法の一つとして「焼香」(しょうこう)や「塗香」(ずこう)」が取り入れられました。「焼香」とは香を焚くことをいい、「塗香」とは香を手や体に塗ることをいいます。

お香をお供えする意義は、①仏前を清める、②自分自身を清める、③邪気を祓う、④浄土の功徳を香りで感じるなど、宗旨や宗派によって捉え方も違うようですが、浄土真宗では「お浄土の功徳」を香りで感じさせて頂く「お荘厳(しょうごん)」と考えています。朝晩、お仏壇にお参りする度にお香を焚いて、都度お浄土の功徳を感じさせていただきましょう。
※金香炉(かなごうろ・金属製の香炉)は焼香、土香炉(どごうろ・陶器製の香炉)は線香に用います。
※お線香の作法…普段のお参りは、お線香をお供えします。一、二本のお線香を手に取り、香炉の口の大きさに合わせて折ります。
すべてのお線香に点火し、横に寝かせて香炉にお供え致します。

土香炉(どごうろ)

土香炉(どごうろ)

香盒(こうごう)と抹香(まっこう)

香盒(こうごう)と抹香(まっこう)

お仏飯(ぶっぱん)について
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浄土真宗では、毎朝お仏壇に「お仏飯」をお供え致します。これは、今から口にさせて頂く食べ物が、私たちの命を生かす「尊いご恩」であることを、仏様の光のなかで、毎日感謝申し上げるためです。

炊き立てのご飯を仏器(仏飯器)にもって、中央の阿弥陀様、親鸞様、蓮如様の前にお供え致します。(九字名号、十字名号の前にはお供えしません。)この時、仏器は、上卓(うわじょく)または供飯台(ぐはんだい)の上に置くようにします。

お仏飯は原則として正午までに下げますが、これは「非時食戒(ひじしょくかい)」に根拠するものです。かつての仏道修行者は、非時(午後)の食事を戒めていましたので、午前中にお仏飯を下げて、それを頂くようにしていたのです。お仏飯を朝にお供えできないときは、昼や夕方でもかまいません。お供えする気持ちが大切です。下供(げぐ)したお仏飯は、「お下がり」として有難く頂きましょう。

・本願寺派では、「蓮の実」の形を模して、お仏飯を丸く盛りつけます。
・真宗では、湯呑みにお茶を入れたり、コップに水を入れたりしてお仏壇にお供えすることはありません。

 

お荘厳(しょうごん)のこころ
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みなさん、「信は荘厳(しょうごん)より起こる」という言葉をご存じでしょうか。信心というものは、お浄土のお荘厳の功徳から生まれる、という意味です。阿弥陀様は、私たちを救うためにお浄土という世界を完成なされましたが、その美しく、また立派に仕上げられている荘厳の功徳によって、自然に信心が恵まれるというのです。

家庭のお仏壇にお供えされるお香、ロウソク、お花をはじめ、お餅やお菓子、果物などのお飾りは、「阿弥陀様の功徳が今、ここに至っている」という何よりもの証(あかし)といえましょう。日々、阿弥陀様のお慈悲を喜び、まちがいのないご利益に感謝申し上げながら、心を込めてお給仕させて頂きましょう。

※荘厳(しょうごん)…仏前を飾ること。
※給仕(きゅうじ)…仏前の花をお供えしたり、仏飯をあげたり、お供え物をしたりすること。
※三具足…中央に香炉、向かって右にロウソク立、向かって左に花瓶をお供えする。
※五具足…中央に香炉、香炉の両脇にロウソク立を一つずつ、その外側に花瓶を一つずつお供えする。
※ろうそくに点火することを「点燭」(てんしょく)、お花をお供えすることを「供花」(くげ)、お香をお供えすることを供香(ぐこう)という。ろうそくは、普段は白、お祝いの行事では赤または金を用いる。仏華は、四季それぞれに適当なものを供えるが、毒花やとげのあるもの、悪臭のあるものは避ける。線香は、本数に決まりはなく、立てずに横にして供える。

お仏壇の購入前に
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浄土真宗のお仏壇は、私たちの信仰の対象となる阿弥陀様と阿弥陀様の世界(お浄土)を表現したものです。購入に際しては、そのことを十分に踏まえて、慎重に検討したいものです。

お仏壇の形状や様式は、宗派によって随分と異なり、一つひとつのお飾り(荘厳)やお仏具にも違いがあります。高価な品だけに、他宗のお仏具や必要のない道具を購入することがないように致しましょう。

「難しいことは分からない」、「間違いのないお仏壇を購入したい」と思われる方は、どうぞ住職へご相談ください。

なお、お仏壇の中心となるご本尊様(「南無阿弥陀仏」または「阿弥陀如来」)は、ご本山(本願寺)からお迎え致しましょう。お寺にお申し出くだされば、ご本山に申請致します。

※お仏壇にお花をお供えしたり、お仏飯を上げたりすることをお給仕(きゅうじ)といいますが、このお給仕も含めて「大切な仏事」です。